高橋英吉、太斉春夫

出典: 石巻Wiki

高橋栄吉(1911-42)太斉春夫(1907-44)

概要

画像:高橋英吉、太斉春夫.JPG

高橋英吉(1911-42) 太斉春夫(1907-44)


太平洋戦争は多くの才能ある芸術家たちの命をも奪った。彫刻家高橋英吉と漆絵研究の第一人者太斎春夫も、先の戦争の犠牲者だった。 二人について、春夫の兄である太斎惇(1899-1991) は 「まるで兄弟のごとくだった」と回想していた。 

春夫は小学校長だった父の転勤で少年時代を石巻・小竹浜で過ごし、昭和二年に宮城師範学校を卒業後、小学校教諭となるが、芸術に対する意欲を捨てがたく、四年に東京美術学校(美校=東京芸大) に入学、フランス留学中の先輩のアトリエを借りて自炊生活を送っていた。 湊で缶詰工場、遠洋漁業を広く営む富裕な家の五男に生まれた英吉は、旧制石巻中(石巻高、3回生) に在学していた。授業中、教科書の陰で机に彫るなど彫刻に熱中していた。


 二人が出会うのはそのころ。小竹から石巻・住吉に移り住んでいた春夫の両親の借家で出会った。春夫が夏休みを利用して帰郷していた所へ英吉が訪れた。なぜ英吾が訪れたか、今は知る由もないが、船の模型など既に彫刻に才能を発揮し、美校への進学にあこがれていた英吉にとって、そこで学ぶ春夫に会ってみたかったのではないだろうか。芸術に燃える二人はたちまち意気投合した。 

五年、英吉は旧制石巻中を卒業すると同時に家族の反対を押し切って上京。春夫の所に同居し受験するが失敗。翌六年、晴れて美校彫刻科に入学、二人は共同生活しながら勉学に励む。 この美校時代、二人そろって二科展に入選、県民富まで受けた。が、学校の許可なしで出品したため停学謹慎一週間を科せられている。

 惇は美校時代の二人を振り返っている。「油絵と木彫の違いはあっても、晴れがましい美校の生徒として、貧しくも食うや食わずの中で、寝室は布団入れで、交替で寝起きしつつ勉強した。この時代の二人の姿は希望に満ちあふれていた。 春夫は七年に卒業。翌八年に結婚、この年、台湾総督府の招きで漆の研究に従事、台湾漆の美術フィルム加工品を開発。九年、漆膜化に成功、発明特許を得る。

 英吉は十一年、美校を卒業。このころ後輩として彫刻科に在学していた佐藤忠良 (1912-、大和町生まれ)らと知り合う。十二年、美碓瑚究科を中退。芸術的な壁にぶつかり、それを乗り越えようと、当時、捕鯨の基地だった牡鹿・鮎川港から捕鯨船に作業員見習として乗船した。南氷洋へ出航、深夜にデッサンを続け、後の「海の三部作」(「黒潮閑日」=昭和13年、「潮音」=14年、「漁夫像」=16年)制作への契機となる。翌十三年、南氷洋より帰港する。

 春夫が東京に帰ってきたのは明らかでないが、九年に東京・下落合に工房を建設、漆絵の研究を始めている。英吉は再三、帰国して芸術家として復帰するように促していた。再会は二人の交友をますます深めた。十五年、英吉結婚、池袋で新婚生活を始める。仲人を務めたのはもちろん春夫夫妻だった。戦争が激化していく中で、二人は創作活動の中心時代を迎えた。

英吉は「海の三部作」を完成させ、春夫は漆絵を利用したモザイク画などに意欲を見せた。 が、戦争が二人の将来を閉ぎす。まず英吾が十六年に召集される。同年九月に長女幸子が生まれたばかりで、「漁夫像」を第四回新文展に出品した直後のことだった。翌十七年十一月、ガダルカナル島で戦死。ガ島へ向かう輸送船上で流木に彫った 「不動明王像」が遺作となった。応召してからも英吉は兄のように慕っていた春夫に手紙を書くことを忘れなかった。

 春夫は十八年に応召。翌十九年七月、中国で戦死する。  英吉の一人娘幸子は現在、神奈川県逗子市に母澄江(1918⊥と一緒に暮らしている。版画家として活躍しており、父の古里・石巻で開催する年賀状の木版画教室(石巻文化センター主催)は毎年、定員を上回る人気を呼んでいる。

 澄江は 「英吉は身長一七五、六舛ンあり、そのころでは大きい方でした。春夫さんは、英吉と違って小柄でした。その二人が兄弟のように付き合っていました。仲人も春夫さんが買って出てくれました。本当にいい人でした」と懐かしそうに話す。


            == 出典 == 石巻圏 20世紀の群像 編集:三陸河北新報社(石巻かほく)


(2000・8・15)

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