石母田正輔

出典: 石巻Wiki

石母田正輔(いしもだしょうすけ)

概要

「石巻の市制を施行 初代市長 水道事業に精力」
石母田正輔(いしもだ しょうすけ):1861-1941 旧宮城町生まれ

画像:石母田正輔.jpg


石巻の初代市長に就任したころの石母田正輔氏


紹介

  石巻町長だった石母田正輔は一九三三(昭和8)年四月一目、懸案の市制施行を実現、初代市長に就任した。強力なリーダシップゆえに町長時代は議会の抵抗勢力に不遇な思いもしたが、トップの座に返り咲いてからは石巻市の基盤整備に手腕を発揮した。特に財政事情から困難とみられていた水道事業を完成させた功績が大きい。

 石母田家は仙台藩に代々仕えた家柄で、正輔の祖父寛衆は筆頭勘定奉行の要職にあった。知行は宮城郡大沢村芋沢(旧宮城町、現在は仙台市青葉区芋沢)で、正輔はそこで生まれた。

 宮城師範学校を卒業した正輔は新聞記者を志願し、奥羽日日新聞(仙台市)に入社。間もなく官界に転じ、茨城県龍ケ崎警察署長、島根県警察部長などを経て、日清戦争後、台湾に渡り新竹州の知事に就任した。正輔を知事に推薦したのは同じ仙台藩水沢(現岩手県)出身で時の台湾総督府民政局長の後藤新平(1857-1924)と、後に仙台財界の実力者で貴族院議員となる荒井泰治(1861-1927)だったとされる。
 その後、荒井が北海道に電灯事業を興すことに協力。州知事の職を辞し発足したばかりの札幌電燈会社社長に就任した。正輔は第一水力発電所を設けた定山渓の温泉開発に着目。札幌-定山渓間の鉄道敷設を提唱し、定山渓が温泉地として振興する基礎を固めた。

 時代は明治末期のころで、当時の石巻町は政争のまっただ中。若さと行動力を期待された町長の米倉清五郎が失脚し、町長不在という異常事態に陥っていた。

 町長のなり手に窮した石巻町の議会や財界人らか〝救世主〟の人選を依頼したのが荒井だった。荒井は鉄道事業にも手を広げ、小牛田-石巻間が当時開通間近だった仙北軽便鉄道の社長を務めていた。新井は実業家として活躍している正輔が、台湾の州知事時代に現地民から絶大な支持を受けていたのを思いだし、町長就任を強引に説得した。

●町政混乱の中で第9代町長に就任●

こうして一九一二(大正元)年九月、町政混乱の中で正輔は第九代石巻町長に迎えられた。正輔は人事の刷新を図って役場内に新風を吹き込む一方、苦しさを増していた経済情勢の振興に取りかかった。同年十月二十八日、仙北軽便鉄道の小牛田-石巻間に初めて小型列車が走り正輔を勇気づけた。

 正輔が石巻の再生策として最初に目標に掲げたのが、北上川河口への漁港建設だった。当時、河口部の水深は浅くなっており、干潮時には人が歩いて渡れるほど。五〇トン、一OOトンクラスの船が航行できなくなったり、毎月のように事故があった。正輔は河口港の改修に心血を注ぎ、漁港の町への基盤を築いた。

 このほかにも正輔は、日和山公園の開発、長浜海水浴場の開設、電気・ガス・上水道の公営化などに取り組んだ。しかし、石巻で政争の火種は絶えることなく、正輔の任期満了を控えた町議会は仕事ぶりを評価する再選派と、政策の進め方が強引と批判する刷新派に分裂。大もめにもめた揚げ句、正輔は一六(大正5)年十月、わずか一期で町長の座を追われた。当時の自治体の長は住民の直接選挙で選ばれるのではなく、議会によって選 出される仕組みだった。

 正輔が助役に起用した宇和野源三郎(1863-1933)は、堅実な人柄を買われ正輔退任後も二人の町長の下で助役を務めた。自ら第十三代町長に就任すると二五(大正14)年、市制準備調査会を設置。市制実現を目指した正輔の意思を継承した。

  正輔が町長だったころからの悲願とされていた市制施行と上水道着工という課題が具体的に浮上してくると、町民の間でくすぶっていた「石母田待望論」が大きな声になっていった。そうした世論の前に宇和野は潔く一期限りで町長を勇退。二九(昭和4)年四月、正輔は実に十三年半ぶりに石巻町長に返り咲いた。既に六十八歳になっていた正輔だが、水道と市制施行の二大事業実現に向け精力的に動く。

 上水道の事業規模は町の年間予算の三倍強にも上る百九十万円。起債、補助金を苦労して引き出しつつも借人額が膨らみ財政破たんを不安視する向きもあったが、正輔は「うまくて安全な水のために設備投資が先行するのはやむを得ないこと」とひるまなかった。結局、上水道は三三年四月、給水を開始。しばらくは赤字経営が続いたが、給水戸数の増加で七年後ほどに赤字額は縮小した。

  水道事業を進める一方で、夢だった市制施行の実現に向け全力を傾けた。市に昇格することによって行政上の監督権限が町村に比べ格段に増えることから、市制移行のチェックは戦前かなり厳しかった。隣接町村の反対で合併こそ実らなかったが、正輔は石巻町単独でも市に昇格させる不退転の決意を固め、議会を説得。「市制施行に関する意見書」を内務大臣と県知事に提出し、早期実現に協力を求め、陳情運動を繰り返した。三三年二 月の臨時町勢調査で人口が三万三千人と順調に増加していたことも追い風となり、同年三月、石巻の市制施行が内務省告示された。

  ●町村合併や将来計画実現に自信●

 市制施行によって町長、町議会議員は自然解職。四月十日に第一回市議選が公示され、新しい議員三十人の圧倒的な支持で初代市長に正輔が選ばれた。〝石巻丸〟は財政難という荒波にもまれながらも力強く船出。正輔は石巻を近代都市として飛躍させるため①隣接町村との合併②合併計画区域を加えた都市計画の実施③港湾修築に伴う急を要す る諸事業④将来の計画(環状運河の開削、石巻港の第二種重要港湾への編入と第二期修築工事など)といった市勢振興策を掲げ、自信満々でかじを取った。

  正輔は五人の息子をもうけた。二男・正(1912-86)は日本古代史の学者(法政大名誉教授)として戦後の歴史学に大きな影響を与えた。四男・白沢純(1920-2002)は歌舞伎の伝統を裏で支え続けている藤浪小道具(本社東京)の社長、五男・達(1924-)は元衆院議員。 

 桐朋学園(東京都調布市)に勤めていた三男・節(1915-、石巻市在住)は父正輔について次のように振り返る。「頑固で封建的なおやじでした。『友達を大事にしろ』と『貧乏は恥じやない』が口癖。外見は立派にしていましたが、家の中は清貧というより火の車。苦学するのは当たり前という考えだったから、子供は学費も出してもらえませんでした。子供たちは集まると父の悪口をよく言ったものですが、本当はみんな尊敬していました」
             (2002・1・16)


参考

引用文献:『20世紀の群像』(下巻)医療福祉・政治・経済編
   2002年7月5日第1刷、三陸河北新報社(石巻かほく)、pp.38-42.
参考資料:石巻市発行「石巻市史・第3巻」、石巻市発行「石巻の歴史・第2巻」






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