生江義男

出典: 石巻Wiki

生い立ち

生江義男について

1917年3月2日、宮城県牡鹿郡石巻町石巻裏町に生まれ、町立石巻小学校、宮城県立石巻中学校を経て昭和10年4月、東京高等師範学校文科四部(地理・歴史専攻)に入学、さらに昭和14年4月、東京文理科大学史学科(国史学専攻)に進んだ。しかし、疾病を得て、昭和16年1月、同大学を退学して郷里に療養するうち、同4月、請われて母校の県立石巻中学校の教諭となった。以来、昭和23年まで、途中、応召の3年間を除き母校の教壇で多大な影響と感銘を与えた。後に石巻市民功労者として推挙している。

昭和23年4月、東京高等師範学校の強い要請により宮城県立石巻中学校を辞して、財団法人桐朋学園の充実・発展にあたる。生江氏は私学桐朋の教育興隆に全力を投入した。その目標の第一は「質の高い真の教育を作りあげる」ことであった。

概要

  • 「暖かい眼」を持つ教師

昭和16年4月宮城県立石巻中学校に地理・歴史の教師として赴任。

就任前、小林秀雄氏の論説に教師としての気構えを教えられている。そして今(1979年1月)も教師としての心の支えとなっているようだ。

「暖かい眼」で歴史を眺め、学生たちにも、そうした視点を育成したい

しかし、当時の歴史教育界には「暖かい眼でも向けたら、歴史の客観性が台無しになる」という風潮があった。

「落ちこぼれ」→教師の責任回避。「暖かい眼」など生まれてこない。

生江氏は「落ちこぼれ」という言葉を聞くつどミレーの『晩鐘』を連想したそうだ。そこに描かれている「落穂ひろい」の態度の中に教師としての「暖かい眼」が生まれてくる、と考えている。つまり、教師は、ただ単に、テストの成績で、生徒を評価するのではなく、生徒ひとりひとりのもつ可能性を、いかにして見いだすかということに努力をかたむける、という視点に立つとき、教師自身の人間性が形成される。

そして、教師の「暖かい眼」は、児童・生徒にむけられるだけではなく、先輩、同僚、後輩、そして、広く社会一般にも及ぼすことが必要である、と言っている。

また、現在の教育界においては、教師と教師、教師と生徒、教師と父母との関係に“ヒューマン・リレーション”はみられない。いろいろな原因が考えられるがなによりも「対話の精神」に欠けていることが、その要因である、とも述べている。

そして、かつて“スチューデント・パワー”が教育界を大混乱におとしいれた一因について生江氏は、「教育界も社会も、大学を“終着駅”としていること、みずから選び、学ぼうとする意欲が、現在の教育制度によって阻止されていること、師弟関係が“評価点”という抽象化された数字を媒体としてきたことをあげている。

こうした課題を解決するためには、過去のものの“選択”と未来への“創造”でなければならないとし、その方法は“言霊”の復活をはかり、“対話”の精神を尊重することと述べている。(昭和四十五年に執筆)

生江氏の考える教師の「暖かい眼」とは、『対話』によって具体化されるのである。

 戦前 先生の眼は暖かかった。
 →「教師を志して教師になられたから」
 教師としての要素は
 戦後 「生活のための教師」群が蔓延           「暖かい眼」

帰還当時の虚脱感と緊張感がやわらぐにつれて、教育そのものの内側が腐敗している現実が見える。「暖かい眼」を歴史だけでなく生徒をはじめとする対人関係にまで広く適用すべきと考えた。しかし、当時の中学校教育はすでにそのことを完全に否定するまでに硬直化してしまっていた。

  • ホイジンガーの“プレー”

『“プレー”は人間を真剣な状況に引きこんでしまう、幾つかの要素をもっている。

まず、それは、自分の意思と責任で参加するという意味で自由なこと。それに思いきり自由な発想が可能となる。

第二に、相手に勝ちたいという人間の闘争本能が根底にあること。相手に勝つために、最大限の努力をし、自分に打ち勝たなければならない。そこから厳しさが生まれる。

第三に、一定のルールがあること。このルールのない“プレー”は、まったく意味がない。そして、ルール如何によって、“プレー”そのものが楽しくも、つまらなくもなる。』

生江氏は、こうした意味の“プレー”の要素を、「ゆとり」はもたねばならないと考え、そうすればそこに「自由さ」「発想の新鮮さ」「人間性の豊かさ」が生まれるのであると考えていた。

  • アメリカの人類学者エドワード・T・ホール氏のことば(一部)

「ことばでなく“沈黙のことば”で文化を考える必要がある。それを達成するには、狭い専門知識を積極的に打破し、それぞれの“タコ壺”から首を出して、広い総合的立場から文化を眺め、コミュニケーションの手段として“沈黙のことば”の意味をとらえなければならない。」

このことばを受けて生江氏は、こうした学問的分野における“統合”は教育現場にも続いている、教師相互の話し合いによって他教科との関連が生まれるだけでなく、予期しない問題へと発展することが可能となる、と述べている。さらに、「話題を共有しあえる教師」だけでなく「たえず課題を追求する教師」ということも大事にしている。生江氏は、たえず課題を追求する教師が“ゆとり”と“充実”した生活をもつことができる、とし、教えることも大切だけれども、自分で一生涯の課題をもって生きていくことが大切と考えている。教師にも「教育も一生懸命やってもらうが、同時に、一生かけて研究できる課題をもつように」とその姿勢を大事にさせている。自身も仏教世界を研究対象としていた。

  • 故野口晴哉(社団法人整体協会の創立者)

氏は、昭和初期から「心の健康、身体の健康」を提唱。「気」によって「それぞれの人は、自分で身体を再生することができる」と説いた。生江氏は、この方より教育への新たな視点を学んでおり、この点において生江氏の教育観に革命的な刺激を与えた人と考えることができるだろう。 山水学園が培った清潔さに惹かれてこの学園に職を奉じた生江氏。そして、その清潔さを「心の健康からだの健康」ということばに置き換えて教育理念としている。この教育理念は、生江氏が亡くなった現在も桐朋学園に根付いている。

  • 学校の伝統と敗戦による変化

学校の雰囲気は学校の歴史のなかにはぐくまれてきたもの。つまり“伝統”である。

戦後、“伝統”ということばが、教育の舞台から消えかかったまま現在にいたっている。

生江氏が入学した昭和四年の石巻中学校は創立十年にもみたない学校。しかし、厳然とした校風(学び舎に対する奉仕)が樹立されていた。しかし、帰還し復職した生江氏が足を踏み入れた石巻中学校は変ってしまっていた。そのとき生江氏は、『敗戦で石巻中学校の伝統精神までわすれてしまったのか』と述べている。

このような体験から生江氏は、教師と生徒との教育の場である学校について、その環境をたえず愛していくということをわすれてはいけない、という精神が生まれたのであろう。

学校は知育だけの場でなく、「美育、徳育、体育」の場、それよりも「気育」(やる気、がまん強さ、思いやり)の場なのである、とも述べている。

「知・徳・体」を柱とした教育が世の中一般である。教師が与えた問題を生徒が解くという問題解決学習が横行した結果、「知」に傾く教育がはびこることになった。それが偏差値信奉を生んでいる。その傾向を否定するところに教育本来の理念があると生江氏は考え、真の人間を育てるには『美育* 気育』を看過することはできない、とした。生江氏は、桐朋学園に音楽科を創設するなどして、その思いを実践した。

4、暖かい眼との出会い

生江氏の受けた教育は昭和の教育であった。しかし、東京高等師範学校に進み、さらに東京文理科大学に進むころには世の中はもう完全に軍国主義が支配する時代に移行していた。

昭和十六年 日本の教育は明確に「皇国ノ道二則リテ初等教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ成ス」(国民学校令)

昭和十八年五月 召集 六月に入隊 二年後に終戦

昭和二十一年六月に帰還 九月に復職

生江氏が身をもって「暖かい眼」を感じたのは軍隊生活であった。

東部二十七部隊に応召され、10日後には補充兵として華中に向かった。前線での訓練や教育は厳しく苦しいものであったが、それ以上に耐えられず苦しかったことは、人間扱いされない内務班での生活であった。マラリアで参戦できず上等兵になる道さえ閉ざされ、自暴自棄になる生江氏を救ってくれたのが、保定予備士官学校で受けた幹部候補生の教育であった。そこでの生活は、人間扱いしてくれた。生江氏はそれがうれしくて、猛訓練の苦しさなどものの数ほどではなかったそうだ。こうした体験は戦後、生江氏の教育姿勢の形成に大いに役立った。児童・生徒・学生そして教職員の「人間性」を尊重することに努め、その姿勢を生江氏の心の糧としてきた。教育は客観的な評価を下すのではなく、一人一人の身に備わっている「得難き人間性」をその人格の中に見出すことである、という考えかたが生まれた。

このことは、さまざまな形で表わされているが、桐朋学園女子部の初等部の教育理念でもうかがうことができる。女子部の教育理念は「無」である。これは、「何も無い」ということではなく、生江氏の、既成の教育理念や空虚なイデオロギーを認めることをしないという自負であった。それがある限り、日々新しい教育を創り出す試みを重ねていくことができる。言い換えれば、「無」とはすなわち「創造」であり、「改革」であり、「試行」である。「つめこみの教育」ではなく「創造する教育」を行いたかったのである。

5、おわり

戦時中、人間扱いされない内務班での生活と保定予備士官学校で体験することができた「暖かい眼」、ほぼ同時期にこの2つの体験をしたことで、生江氏の「知育」よりも「気育」、生徒・教師の個性を大事にする、といった一人一人を尊重にする教育思想ができたのではないだろうか。生江氏は、「教育は、児童生徒に始まって、児童生徒に終わる」という強い信念に裏付けされた教育を実践し続けていた。この信念は生江氏独自のものであるが、敗戦直後(昭和二十二年)に文部省によって示された学習指導要領の基本姿勢にもその原点を見出すことができる。それは①児童生徒の生活の周辺に起因する諸問題を授業で取り上げ、②生徒と共に問題を検討し深め、③合わせてこれからの時代に必要になるはずの国際理解の教育を推進する、というものであった。

今後「真の人間を造る教育」が生まれたのは、保定予備士官学校の影響なのか、それとも戦後直後の学習指導要領の基本姿勢から発展していったのか、などをさぐるためにも保定予備士官学校ではどのような教育が行われていたのかなどを調べ、生江氏の教育思想を深くさぐってみようと思う。また、「無」の教育の裏には研究対象である仏教世界との関係があるのか、なども調べていきたい。

おまけ:生江氏の座右の銘は「吾以外皆吾師」(昭和三十五年TBSブリタニカより)

参考文献

  • 生江義男先生追悼文集「風の彼方へ」
  • 桐朋学園創立二十周年記念誌
  • 桐朋学園創立三十周年記念誌
  • 桐朋学園創立四十周年記念誌
  • 桐朋学園創立五十周年記念誌
  • 桐朋学園創立六十周年記念誌
  • 『私の受けた教育』から(上) 1979年 総合教育技術1月号
  • 『私の受けた教育』から(中) 1979年 総合教育技術2月号

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