川村孫兵衛の墓所

出典: 石巻Wiki

川村孫兵衛の墓所(かわむらまごべえのはかどころ)

概要

川村孫兵衛の墓所はその昔川村孫兵衛家代々の墓所として十四代までの川村家累代の墓地である。  初代川村孫兵衛重吉は、天正三年正月(一五七六年)長州阿武郡に生れ、慶長の初年(一五九六年)伊達政宗公に仕え、宮城郡に一時居を定めたが北上川河口付替工事のため当地に来て墳墓の地を此所に定め、政宗公、忠宗公の二世に仕え慶安元年(一六四八年)十月廿七日、七十四才で当地で没した、墓碑の法名は普徹聖公居士、妙徹禅定尼。と墓石に刻まれているが後年普誓寺普徹聖公居士、龍観院心源妙徹大姉。と追号された。  普誓寺の開山は承應二年(一六五四年)で川村家二代目孫兵衛元吉が義父重吉の遺言で重吉の居宅を旧寺跡に移して建てられた菩提寺である。川村孫兵衛重吉は幼名を万五郎と言い珠算、和算の天賦にすぐれ、初めは毛利輝元に仕えたが、慶長五年関が原の合戦後近江の国、蒲生の地で天文、採鉱、土木等に長じた重吉の天分を政宗公の知るところとなり主従の約を結んで仙台へ来たのが重吉二十五、六歳の頃と言われる。その時、任国への土産にと明石の黒松の種三駄を持参し海岸に防潮の林としたり亘理、鳥の海間の運河を手始めに仙台六郷の堰、冠川の疏通、孫兵衛堀若林城外濠、品井沼の潜穴、江戸四ッ谷上水、等の土木工事を手にがけ、特に元和九年(一六二三年)に着手した北上川河口付替工事は孫兵衛重吉の心血を注いだ畢生の、大事業であった。  追波湾を河口としていた北上川を、江合川、迫川の二川を桃生郡神取の地で北上本流に合わせ鹿の又より石巻まで河道を掘り稲井真野川と共に石巻湾に流れを変えて石巻港を実現させたのが寛永三年(一六二七年)の事であった。孫兵衛夫妻の背後にある樒の古木は重吉翁埋葬のおりの記念樹である。

関連事項

川村孫兵衛


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