北上川
出典: 石巻Wiki
| 北上川 | |
|---|---|
| 画像:Kitakami river01s3872.jpg 展勝地対岸より(北上市) | |
| 延長 | 249 km |
| 水源の標高 | - m |
| 平均流量 | 391 m³/s |
| 流域面積 | 10,150 km² |
| 水源 | 弓弭の泉(岩手県) |
| 河口 | 旧北上川 石巻湾 新北上川 追波湾 (どちらも宮城県) |
| 流域 | 岩手県・宮城県 |
北上川(きたかみがわ)は、岩手県、宮城県を流れる北上川水系の本流で、一級河川。流路延長249km、流域面積10,150km²は東北最大であり、全国でも4番目に入る。また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことが特徴。
江戸時代には囲米の江戸への輸送が行われ、仙台藩主の伊達政宗などが改修工事や周辺の新田開発を行う。
目次 |
[編集] 地理
| [[ファイル:Kitakami River.jpg|thumb|230px|none|平泉町の高館(義経堂)より北方の陣場山方面を望む。]] thumb|230px|none|盛岡市内 |
岩手県岩手郡岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)を源流とし(源流地については諸説ある)、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って北から南へと流れる。宮城県に入り、登米市で洪水防止のため開削された新北上川と旧北上川が分かれる。新北上川はその後東へ向きを変え石巻市(旧北上町地区)で追波湾に注ぎ、旧北上川はそのまま南流し石巻市で石巻湾に注ぐ。
旧北上川河口から松島湾を経て阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約60kmに及ぶ日本最長の運河・貞山運河が延びている。この運河により、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系がつながっている。
[編集] 流域の市町村
- 岩手県
- 岩手郡岩手町、同郡滝沢村、盛岡市、紫波郡矢巾町、同郡紫波町、花巻市、北上市、胆沢郡金ケ崎町、奥州市、西磐井郡平泉町、一関市、東磐井郡藤沢町
- 宮城県
- 登米市、石巻市
[編集] 文化
- 宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」といえる。花巻市には宮沢がドーヴァー海峡を想起し名付けた「イギリス海岸」がある。
- また同じ岩手県平泉には、北上川が一望できる義経堂がある。
- 北上川流域には、日本ハリストス正教会の教会が多く分布している。これは、明治初期における北上川の河川交通との関わりが深い。
[編集] 北上川開発史
[編集] 為政者達の開発
[[ファイル:Kitakami river05s3200.jpg|thumb|220px|支流・和賀川(北上市上空より)
写真中央に石羽根ダム、上方に錦秋湖(湯田ダム)が見える。左側の帯状の線は秋田自動車道。]]
北上川流域は古来より豊穣の地であり、蝦夷の居住地として朝廷軍と度々戦闘が繰り広げられた。平安時代末期、前九年の役・後三年の役を経て藤原清衡が北上川中流域に勢力を築き、奥州藤原氏は平泉を中心に強大な勢力を誇示したが、度々の水害には手を焼いていて北上川の治水は長年の課題であったが、有効な施策を打てないでいた。中世においては在地豪族による争いが繰り返され、北上川の開発は行われる術も無かった。
安土桃山時代後期、豊臣秀吉の奥州征伐によって北上川流域の在地豪族は小田原征伐不参加の咎でその殆どが改易に追い込まれ、南部信直と伊達政宗が流域を統治することとなった。関ヶ原の戦いでも政宗と南部利直(信直の子)は揃って徳川家康の東軍に加担し領地を安堵された。これ以降江戸時代は上流・中流を盛岡藩・南部氏が、下流を仙台藩・伊達氏が戊辰戦争で両藩が敗戦するまで統治する事となった。北上川の開発は伊達氏・南部氏による統治によってその幕を開ける。
治水において、仙台藩においては1605年に伊達政宗が北上川と迫川の分流工事に着手したことが端緒である。「相模土手」と呼ばれるこの堤防は1611年に完成したが、これにより北上川と迫川は分離され栗原郡・登米郡の新田開発が促された。更に仙台藩二代藩主・伊達忠宗(政宗の子)の代には「若狭土手」も完成し、治水は更に強化された。下る1791年には北上川の護岸工事として「岩出沈床」が施工されている。一方盛岡藩では信直晩年に居城が盛岡に移されたが、北上川・雫石川・中津川の3河川が合流するこの地点は度々の氾濫被害を受けており、盛岡城は三代藩主・南部重直の代まで建築が続いた。その後も洪水による被害が後を絶たなかったので重信は1680年より雫石川と北上川の合流点に岩石を投入して水勢を弱め、城下町を水害から守ろうとした。この事業は五代藩主・南部信恩の代、1702年まで続いた。
一方利水であるが、特筆されるのは仙台藩領における「寿庵堰」である。北上川本川は鉱毒によって利水が不可能であった為、支流の河川に取水を頼らざる得なかった。胆沢郡においては胆沢川の河水を利用していたが天候によって流量が左右される為、安定した水供給が農民から求められていた。1618年、政宗の治世に胆沢の館主・寿庵は用水路を引き胆沢郡内の灌漑に供しようと考え、事業に取り掛かった。ところが寿庵はキリシタンであった為に罰せられ、一時事業は凍結されてしまった。だが用水の重要性を認識していた藩は千田左馬と遠藤大学に命じ、用水路建設の継続を命じた。1631年、全長約43.0kmに及ぶ用水路は完成し、胆沢郡の約3,000haに及ぶ水田に水が供給された。この寿庵堰は河川の水位を巧みに利用し、「胴」(ど)と呼ばれる水管が水量を細かに調整する事で安定した水量を水田に供給する事が可能なものとなっており、サイフォンを利用した高度な土木技術を駆使している。1660年~1680年頃に更に改良工事が行われている。
こうした治水・利水を継続的に実施した事により仙台藩は表高62万石なのに対し実高100万石、盛岡藩も表高10万石なのに対し実高23万石の収入を得る事が出来た。だが、開発に伴い当時迷信が幅を利かせたこともあって、工事に際して水神の祟りを沈める為の人身御供が行われていた。代表的なものとして仙台藩内では若狭土手建設の際に「お鶴」とよばれる女性が生き埋めにされ、盛岡藩内では千貫石堤(現在の千貫石ダム。現在のダムは1940年に改築)建設の際に「お石」と呼ばれる女性が千貫で買われ、水神に捧げられたという悲話が今に伝えられている。千貫石堤の語源はまさに、『千貫で買われたお石』の事を意味する。また、特に紫波郡や和賀郡・稗貫郡といった北上川中流域では、支流の河川の流量が少ないため水争いが絶えず、特に紫波郡の場合は死者が出るほどの激しさであり俗に『志和の水喧嘩』とまで呼ばれた。根本的な水不足解消は戦後、山王海ダムの完成まで待たなければ成らなかった。
[編集] 近代河川工事~付替えと運河~
明治時代に入ると政府主導による治水工事が行われたが、代表的なものに旧内務省による「北上川改修工事事業」がある。北上川本川はかつては石巻市を貫流して仙台湾へと注いでいた。だが度重なる洪水から石巻市等下流地域を守る為、北上川分流工事を開始した。1912年(明治44年)から1934年(昭和9年)まで22年を掛けて北上川を登米市付近で派川である追波川を利用した開鑿工事を実施。旧北上川と新北上川に分流し、新北上川を放水路として洪水を追波湾へ東遷させた。旧北上川についても1920年(大正9年)より1932年(昭和7年)まで12年を掛けて分流・改修工事を行い、分流堰として鵠谷洗堰・脇谷洗堰が建設され、水運確保の為の脇谷閘門も設置。又分流地点より上流には飯野川可動堰が建設され、洪水調節と用水確保が図られた。一方江戸時代に迫川との合流工事が実施された江合川も、北上川と同様に洪水を分散させる為に新江合川を開鑿、鳴瀬川に合流させる事によって仙台平野を水害から防除しようとした。
水運整備で言えば1882年(明治14年)に東北地方の基幹港湾建設の為に北上川-松島湾-鳴瀬川-阿武隈川を結ぶ大規模運河の建設も行われ、貞山運河・東名運河・北上運河を結合させた全長60kmに及ぶ大運河が建設されている。
[編集] 北上川5大ダム計画の胎動
昭和に入り、TVA(テネシー川河谷開発公社)の影響を受けた当時のダム技術・理論の第一人者・物部長穂は水系を一貫して総合的な開発を行う事により、治水・水力発電・灌漑・上水道といった複数の目的を同時に果たす事を可能とする『河水統制計画案』を纏めた。これは内務省官僚・青山壮によって採用され、1938年(昭和13年)に全国の7河川と諏訪湖を対象とした「河水統制事業」が実施される事となった。東北地方では奥入瀬川と浅瀬石川が対象となっている。
北上川についても、一関市より登米市に至る流域は両側に山地が迫り川幅が急に狭くなる地形となっていた。いわゆる「北上川癌狭窄部」によって洪水流下能力は阻害され、一関市は特に洪水の被害が頻発していた。これに対し内務省はダムによる洪水調節を行って一関市狐禅寺地点で洪水流量を浸水が起きない程度に低減させる事とした。これは「北上川上流改修計画」と呼ばれ、その根幹事業として北上川本川・雫石川・猿ヶ石川・和賀川・胆沢川の岩手県内主要支川におけるダム計画が立案された。いわゆる北上川5大ダム事業の誕生である。内務省は第一番目に猿ヶ石川中流部にダム建設を計画した。これが田瀬ダムであり、国が直轄事業として建設に着手したダムとしては最初の例である。1941年(昭和16年)より工事は開始されたが、太平洋戦争の激化により事業は1944年(昭和19年)8月の『決戦非常措置要領』の発令により中止となった。
[編集] 食糧増産と灌漑事業
終戦後、内務省は「北上川上流改修計画」を再始動させたが、当時は極端な食糧不足が問題と成っていた。この為治水よりも農地開墾の為の灌漑用水の整備が最も重視された。この為北上川5大ダム事業のうち、灌漑効果が大きいと考えられた胆沢川のダム計画が優先され、終戦直後の1945年(昭和20年)秋より工事に着手されている。この石淵ダムは日本で最初に事業着手されたロックフィルダムとして有名である(尚、最初に完成したのは岐阜県の小渕ダム(久々利川)である)。田瀬ダムの工事は中断されたままであり、尚且つ一旦ダム建設の為に立ち退いた住民に対し内務省は開墾・耕作の為の帰郷を認めた。この後再度立ち退きの為の補償交渉が持たれる事になるが、当時の食糧事情による特殊な事例であった。
一方農林省(現・農林水産省)は1947年(昭和22年)より全国4水系において「国営土地改良事業」に着手した。農業版河川総合開発ともいえるこの事業は北上川流域でも強力に実施された。一大穀倉地帯でありながら北上川本川は酸性度の強い河川であった為利用できず、旱魃の際には凄惨な水争いが各地で繰り広げられた。これを根本的に解消すべく、「国営山王海農業水利事業」等の国営事業を展開。山王海ダム(滝名川)・豊沢ダム(豊沢川)・岩洞ダム(丹藤川)・荒砥沢ダム(二迫川)等農林水産省直轄ダムを建設、頭首工や用水路を整備して灌漑整備を行った。この結果安定した用水供給による農地拡大が実現し、仙台平野はササニシキを始めとした日本有数のコメの名産地となった。
[編集] 台風で改められた河川改修
1947年(昭和22年)のカスリーン台風、翌1948年(昭和23年)のアイオン台風と北上川流域は2年連続で台風が襲来。一関市等では立て続けに甚大な被害を受けた。宮城県下でも低湿地帯の多い登米郡・栗原郡付近において被害は甚大であった。
内務省解体後河川事業を継承した建設省(現・国土交通省)は相次ぐ水害を受け従来の「北上川上流改修計画」の改訂を迫られた。この頃は全国各地で水害が頻発しており、経済復興の阻害になると考えた経済安定本部は諮問機関である「治水審査会」に諮り、利根川・信濃川・淀川等全国主要10水系を対象に、多目的ダムを中心とした総合的河川開発を推進した。これが『河川改定改修計画案』であるが、北上川水系においては上流と下流で別個の河川改定改修計画が立案された。上流部は旧計画を発展させた「北上川上流改定改修計画」であり、北上川5大ダムの建設予定地や規模を変更して一関市狐禅寺地点での洪水流量を更に低減させる事を目標とした。一方下流部では旧北上川最大の支流である江合川が対象になったが、新江合川を通して鳴瀬川とも関連している事から両河川を一体化した「江合川・鳴瀬川改定改修計画」が立案され、この中で江合川本川と鳴瀬川本川のダム計画が検討された。
一方宮城県土木部は迫川の総合開発を独自に進め、「第1次迫川総合開発事業」を実施した。その根幹として迫川本川に花山ダムを建設し、更に支流の自然湖である長沼の洪水調節池化や南谷地遊水地の整備等を盛り込み、更に江合川にも上流の鳴子峡地点にダム計画を立てた。
[編集] 北上特定地域総合開発計画
1951年(昭和26年)国土総合開発法が施行され、全国22地域を対象に治水・利水・治山等を包括した総合開発を行い、地域経済の復興と発展を目指した『特定地域総合開発計画』が実施された。当時特に経済発展が遅れていた東北地方は「十和田・岩木川」(青森県)・「阿仁田沢」(秋田県)・「最上」(山形県)・「只見」(福島県)と各県1箇所が指定されていたが、岩手・宮城両県に関しては北上川の大規模総合開発による仙台市等の産業発展を目的に「北上特定地域総合開発計画」が実施された。この中で建設省と宮城県・岩手県が個別に実施していた総合開発事業は統一された。
岩手県内では石淵ダムに始まる北上川5大ダム事業が本格化。田瀬ダムの建設再開を皮切りに湯田ダム(和賀川)・四十四田ダム(北上川)・御所ダム(雫石川)が次々と計画・建設されていく。又、北上川下流では飯野川可動堰の老朽化に伴い同地点に北上大堰が建設されている。江合川では宮城県が計画していた鳴子ダムが建設省に事業移管され建設。その宮城県は花山ダムを建設しさらに栗駒ダム(三迫川)等を更に建設。更に「第2次迫川総合開発事業」を計画し自然湖・長沼のダム化(長沼ダム)を計画した。岩手県でもやや遅れて補助多目的ダムの建設が始まり、綱取ダム(中津川)や入畑ダム(夏油川)、早池峰ダム(稗貫川)が建設・計画された。この様に多目的ダムを中心とした河川総合開発によって以前に比べ水害の被害は減少、北上川の水質も四十四田ダム完成以降改善され、現在は農業用として利用できるまで水質が改善している。但し水力発電に関しては、電源開発によって田瀬・石淵両ダムを利用した水力発電を行っているものの、大規模ダム式発電所や揚水発電は行われていない。これは北上川の河川勾配が他の河川に比べ緩やかな事が起因している。
[編集] その後の北上川開発
北上川水系では比較的早い段階で総合開発が進められ、北上川5大ダム建設計画も1981年(昭和56年)に御所ダムが完成し1938年の「北上川上流改修計画」によって始まった北上川5大ダム事業は43年目にして完結を見た。宮城県内でも江合川総合開発は完了し、県営の「第2次迫川総合開発事業」も長沼ダムを除き完成。農林水産省による「国営土地改良事業」も殆どの地域で終了し、豊沢ダムは岩手県に管理が移管されている。
現在、国土交通省東北地方整備局は石淵ダム再開発事業として胆沢ダム(胆沢川)を建設している。これは貯水容量が小さい石淵ダムの直下流に高さ132.0mのロックフィルダムを建設する事により、胆沢川流域の治水と利水を更に強化する事を目的としている。だが、2013年(平成25年)に完成すると日本のダムの歴史に1ページを築いた石淵ダムは完全に水没し、その役割を終える。一方1990年代に旋風を巻き起こした公共事業見直しの風潮は北上川水系にも影響した。現在岩手県が建設を計画している簗川ダム(簗川)については、建設を巡る賛否が議論されており本体工事には着手されていない。又、和賀川支流の北本内川に建設が計画されていた「北本内ダム」(重力式コンクリートダム・86.0m)が水需要の減少を理由に建設計画が中止されている。然し、北上川水系は治水・利水を含め河川開発は極めて早期から行われていた為事業は殆ど完成又は工事に着手していた為、利根川水系や淀川水系などに比べればその影響は小さいものであった。
[編集] ヨシ原
ヨシ原は開けた水場や湿地に若いヨシが定着することから始まり、次第に乾燥した地面へ移行しつつ大群落を作ることで形成される。このヨシ原の火入れ作業は北上川河口付近から上流約10kmにわたって群生する枯れたヨシを焼くことで、新たに芽を出すヨシの成育が良くなるとされていることから行われている。この作業は地元有志で組織する「ヨシ原を守る会」が主催し、ヨシ原の面積は左右岸併せて約150ヘクタール規模といわれている。
[編集] 北上川水系の主要河川
- 丹藤川
- 松川
- 雫石川
- 中津川
- 滝名川-葛丸川
- 稗貫川
- 猿ヶ石川-来内川
- 豊沢川
- 和賀川
- 胆沢川
- 人首川
- 衣川
- 磐井川
- 砂鉄川
- 千厩川
- 江合川-迫川・二迫川・三迫川・長沼・伊豆沼
- 旧北上川
[編集] 北上川水系の河川施設
北上川の河川整備は戦後、流域を襲ったカスリーン台風・アイオン台風の後に本格的に行われた。建設省・岩手県・宮城県により北上川の本・支流に多目的ダムを建設し洪水調節を図ろうとした。その代表的なものが北上川5大ダムである。宮城県では江合川・迫川を中心に総合開発が実施された。
一方、北上川流域の農業において最大の問題が灌漑用水の確保である。かつて北上川は強酸性の水質であったことから支流に頼らざるを得ない状況だったが、農地面積に対する流域面積の不釣合いや少雨が度々水不足を招き、北上川流域各地において血で血を洗う抗争が勃発した。この不幸な歴史に終止符を打つべく、農林省は北上川水系に大小の灌漑用ダムを建設。安定した農業用水供給を行った。
この様に、北上川水系の治水・利水は国土交通省・農林水産省主体で行われた治水と灌漑が主であり、水力発電に関しては需要が少なかった事もあり、包蔵水力の割には電源開発は小規模に留まっている。
[編集] 主な河川施設
| 一次 支川名 (本川) | 二次 支川名 | 三次 支川名 | ダム名 | 堤高 (m) | 総貯水 容量 (千m³) | 型式 | 事業者 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 北上川 | - | - | 四十四田ダム | 50.0 | 47,100 | 複合式 | 国土交通省 | 北上川五大ダム |
| 北上川 | - | - | 一関遊水池 | - | - | 遊水池 | 国土交通省 | |
| 北上川 | - | - | 北上大堰 | - | - | 可動堰 | 国土交通省 | |
| 丹藤川 | - | - | 岩洞ダム | 40.0 | 65,600 | ロックフィル | 農林水産省 | |
| 一方井川 | - | - | 一方井ダム | 40.0 | 2,459 | アース | 岩手県 | |
| 中津川 | - | - | 綱取ダム | 59.0 | 15,000 | 重力式 | 岩手県 | |
| 雫石川 | - | - | 御所ダム | 52.5 | 65,000 | 複合式 | 国土交通省 | 北上川五大ダム |
| 簗川 | - | - | 簗川ダム | 83.5 | 21,000 | 重力式 | 岩手県 | 計画中 |
| 滝名川 | - | - | 山王海ダム | 61.5 | 37,600 | ロックフィル | 農林水産省 | |
| 葛丸川 | - | - | 葛丸ダム | 51.7 | 5,595 | ロックフィル | 農林水産省 | |
| 稗貫川 | - | - | 早池峰ダム | 73.5 | 15,900 | 重力式 | 岩手県 | |
| 猿ヶ石川 | - | - | 田瀬ダム | 81.5 | 146,500 | 重力式 | 国土交通省 | 北上川五大ダム |
| 猿ヶ石川 | 来内川 | - | 遠野ダム | 26.5 | 1,030 | 重力式 | 岩手県 | |
| 豊沢川 | - | - | 豊沢ダム | 59.1 | 23,256 | 重力式 | 岩手県 | 農林省施工 |
| 豊沢川 | - | - | 豊沢川頭首工 | - | - | 可動堰 | 岩手県 | 農林省施工 |
| 和賀川 | - | - | 湯田ダム | 89.5 | 114,160 | 重力式アーチ | 国土交通省 | 北上川五大ダム |
| 和賀川 | - | - | 石羽根ダム | 20.5 | 4,050 | 複合式 | 東北水力地熱 | |
| 夏油川 | - | - | 入畑ダム | 80.0 | 15,400 | 重力式 | 岩手県 | |
| 宿内川 | - | - | 千貫石ダム | 30.7 | 5,168 | アース | 岩手県 | |
| 胆沢川 | - | - | 石淵ダム | 53.0 | 16,150 | ロックフィル | 国土交通省 | 北上川五大ダム |
| 胆沢川 | - | - | 胆沢ダム | 132.0 | 143,000 | ロックフィル | 国土交通省 | 建設中 |
| 胆沢川 | - | - | 若柳ダム | - | - | 重力式 | 岩手県 | 小堰堤 |
| 衣川 | - | - | 衣川1号ダム | 35.5 | 2,975 | アース | 岩手県 | |
| 衣川 | 南股川 | - | 衣川2号ダム | 34.0 | 2,361 | 複合式 | 岩手県 | |
| 衣川 | 南股川 | 北沢川 | 衣川3号ダム | 41.0 | 1,790 | ロックフィル | 岩手県 | |
| 旧北上川 | - | - | 鵠谷洗堰 | - | - | 固定堰 | 国土交通省 | |
| 旧北上川 | - | - | 脇谷洗堰 | - | - | 固定堰 | 国土交通省 | |
| 旧北上川 | 迫川 | - | 花山ダム | 48.5 | 36,600 | 重力式 | 宮城県 | |
| 旧北上川 | 迫川 | 二迫川 | 荒砥沢ダム | 74.4 | 12,840 | ロックフィル | 宮城県 | 農林水産省施工 |
| 旧北上川 | 迫川 | 三迫川 | 栗駒ダム | 62.0 | 13,715 | 重力式 | 宮城県 | |
| 旧北上川 | 迫川 | 長崎川 | 小田ダム | 43.5 | 8,000 | ロックフィル | 農林水産省 | |
| 旧北上川 | 迫川 | 長沼 | 長沼ダム | 15.3 | 38,500 | アース | 宮城県 | 建設中 |
| 旧北上川 | 江合川 | - | 鳴子ダム | 94.5 | 50,000 | アーチ式 | 国土交通省 | |
| 旧北上川 | 江合川 | 岩堂沢川 | 岩堂沢ダム | 63.2 | 9,600 | 重力式 | 農林水産省 | 建設中 |
| 旧北上川 | 江合川 | 田尻川 | 化女沼ダム | 24.0 | 2,880 | アース | 宮城県 |
(注):青欄は北上川5大ダム。黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年現在)。
[編集] 関連項目
- 奥州藤原氏
- 南部氏-南部信直
- 伊達氏-伊達政宗
- 川村重吉
- 運河
- カスリーン台風
- アイオン台風
- 河川総合開発事業
- 宮沢賢治
- 石川啄木
- 盛岡市
[編集] 参考文献
- 『河川伝統技術データベース』:国土交通省河川局 ホームページ
- 『日本の多目的ダム』1963年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1963年
- 『ダム便覧 2006』:日本ダム協会。2006年
- 『ダム年鑑 1991』:日本ダム協会。1991年
[編集] 外部リンク
【石巻のお勧め店舗情報】
