内海橋
出典: 石巻Wiki
内海橋(うつみばし)
[編集] 概要
明治時代に内海五郎兵衛さんという方が、病気の父親が船で石巻に渡れないために造ったもので、東北でも最初のPFIの橋である。
[編集] 歴史
近年は各地に橋が架かったことで川を渡ることが容易になり、川を渡ることを実感することが少なくなりました。江戸時代には軍事的な理由から架橋が禁止され、渡船が使われ、明治以降も架橋には多額の費用がかかるために橋の数は少なく、人や馬を運ぶ大小の「徒歩(かち)渡し」、「馬渡し」などの渡船が活躍。戦後も渡船は架橋されるまで存続し、北上川と旧北上川には梨の木渡、釜谷渡、元舟場渡、新舟場渡、門脇渡などの渡船場がありました。釜谷渡は昭和51年12月、新北上大橋の開通で廃止。石巻市内の門脇と湊を結んだ最後の渡船は同63年11月、市民に惜しまれながら長い歴史を閉じました。 多くの渡船が消えた中で、宮城県側の北上川には、珍しくなった渡船が2カ所に残っています。
登米市柳津町と豊里町を結ぶ「白鳥渡」は住民の足として日曜日を除いて運航され、一般人の利用もできます。石巻市桃生町の山田と樫崎地区を結ぶ「山田渡」は昭和6年、北上川の開削により分断された地域を結ぶために開設、山田地区の中学生が通学に渡船を利用しています。
明治維新を迎えて自由に橋を架けられるようになると、北上川の最初の橋となる「内海橋」が明治15年7月、現在の石巻市中瀬を挟んで両岸に架橋されます。内海橋は宮城県内の北上川に架けられた最初の橋で、稲井出身の内海五郎兵衛翁が個人で架橋、建設費をまかなうために賃銭を取る有料橋でした。ときの松平正直宮城県令(県知事)はその功績を讃えて永久に伝えるために内海橋と命名しています。
以来、同28年に錦桜橋(きんおうばし・初代)が、同38年に楓橋(米谷大橋の前身)、大正6年に来神橋(登米大橋の前身)などが、地域の先人の努力によって架けられました。 やがて架橋は市町村や宮城県、国の事業でなされるようになり、住民の誰しもが橋の恩恵に浴するようになりました。今日、見られる橋の多くが昭和期に入り初めて架橋されるか、または2代目・3代目として戦前から戦後にかけて架橋されたものです。
内海橋は3代目で昭和8年の橋、天王橋は同じく34年、神取橋は同じく40年、石巻大橋は41年、柳津大橋は2代目の橋で43年、開北橋も同じく49年の橋。豊里大橋も同じく46年、飯野川端も同じく49年の橋。歩行者専用の北上大堰管理橋は50年、新北上大橋は51年の架橋。有料橋で架橋された日和大橋は54年、開北橋歩道橋は59年、神取橋歩道橋も59年の橋。平成期に入ってから、新天王橋(三陸道)が15年、近く日高見大橋が開通の予定です。
石巻市は二つの北上川が市街地を分断し、橋をなくして交通の便を語ることのできない町であり、建設中の曾波神大橋の1日も早い開通が待たれます。
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